この道はいつか来た道
日本のアニメはどこへ行くのか 。この、"アニメ"を他のどの産業に置き換えても通じてしまうほど、陳腐で、しかも深刻な問いについて、私たちは長く答えを見つけられずにいる。
日本文化の世界輸出は、無国籍化しグローバルスタンダードに歩み寄ってこそ前進するのか、それとも、江戸時代の鎖国に倣って元禄文化のようなユニークさを益々高めてこそ評価を得るのか。時折、もうすでにどちらかの選択肢しか残されていないのではないか、とさえ感じるときもある。
しかし細田監督は、そのどちらをも穏やかに、しかし挑戦的に獲得しようとする。海外の映画祭などに赴き、観客やメディアとの触れ合いのなかでその度に刺激を受けながら、映画の持つべき公共性と、作家独自の個性や文化背景が決して両立できないわけではないという思いを強くしたという。
「海外の映画祭で出会うどこの国の映画作家も、まずは自分たちの国の問題にしっかり向き合っている。それは、異文化の人間から見ると、必ずしも身近な問題ではないかもしれない。それでも、しっかりと自分たちのおかれた状況を見つめて描くことによって、問題の本質はなにかを浮き彫りにしようとしている。その本質こそ、映画の“公共性”にとって一番重要な部分なんですよね。」
「つまり、どこの誰の話であっても、誠実に主題に取り組むことによって、公共性を獲得することはできる。だから僕は、身の回りのことを、もっときちんと描きたいと思うんです。それが、自分の心から描きたいと思うことでなかったら、きっと観客に本質は伝わらないし、公共性も獲得できない。無理に想定した観客に対して‘誰かの話’を書いても、きっとつまらないと思うんですよ。」
「監督の数だけ人生があって、視点がある。それが面白い。それを、周囲の大勢の人間たちの意見を巻き込んで、誰にでもあてはまる最大公約数を引き出そうとすると、本質がぼやけてしまう。僕は、誰にでもあてはまる話ではないのに、多くの人が深く共感してしまう映画こそ、優れた映画だと思う。日本人として映画を作り続けるなら、そういう姿勢を持っていたい。」
監督の数だけ人生があり、視点がある。『おおかみこどもの雨と雪』も、自身の出身地である富山の自然を舞台にしている。しかし、細田監督にとってその選択は決して私的な思い入れからではなく、いくつも候補地を探していくなかで、あらためて北陸の自然が持つ特異性を再発見し、それをできるだけ多くの人たちに、つまり、公共的に感動してもらいたいと思ったからだという。
「実は、富山出身といっても僕自身は市内の便利な場所で育ったので、それほど北陸の自然について知っていたわけではなかったんです。それに、自分が住んでいたところなんて、別に大したことないと思ってた。(笑)でも、今回の映画のために、あらためて訪れてみたら全然違って見えたんですよね。こんなにも美しく、険しかったのかと驚いて。他の場所とは全然違う、本当に特異な自然。」
「とくに北アルプス は、はっきりいって、ぜんぜん 癒される自然ではない。日本の田舎ののどかな田園風景みたいなのとは全然違います。自然がきりたっていて、 岩場も多くて、とにかく険しい。なにかあれば食い殺される、みたいな。」
「子供の頃、地元で〈56豪雪〉と言われる、昭和56年に北陸全域を襲った豪雪 があって、平野でも1.6メートルくらい積もったんですね。あの時はすごい雪だったなあ、って僕らが言うと、両親たちの世代は、“いやいや、〈38豪雪〉はもっと凄かった、2M以上積もったからね”って返してくるんですよ。(笑)」
こうした北陸の厳しい自然環境のそばで育った経験が、細田作品の登場人物に直接投影されることはないが、一人の作家としての姿勢には大きく影響を与えている。それはたとえば、 『おおかみこどもの雨と雪』のなかで、そっと自然に寄り添い、共生する人々の姿を描く視点にもよく表れている。
「雨や雪が多いと、当然外に出ないわけで、家のなかで過ごす時間が長くなる。本を読んだり、 内省的になって自分と向き合うんです。もちろん、北陸の人みんながそうとは限らないけどね(笑)でも、落ち着いて自分をみつめること、思いを馳せたりする時間が多かったことが、自分にとっては良かったと思う。それに、天気が悪い場所では、なにか物語を生み出す土壌が育つ気もします。」
「フランスで『おおかみこどもの雨と雪』のプレミアをやったとき、地元のメディアから一番多く質問されたのは、〈文明と自然の対峙〉というテーマについてでした 。それは、日本ではまったく尋ねられなかった視点です。とくに震災の影響もあってか、日本のメディアからは〈家族の絆〉を描く映画として取材を受けることが多かったので、あらためて西洋人の捉え方との違いに気づかされました。西洋世界にはいま、文明の力によって自然をずっと支配して来たことへの自意識、というか、罪悪感というか、“このままで自分たちは大丈夫なんだろうか?”という精神的な揺り戻しのようなものが来ているのかもしれませんね。」
「僕としては、この映画は、人間として生きるか、オオカミとして自然と共に生きるか、どちらが正しいかという話ではないつもりです。 同じオオカミの血を引いていたとしても、姉弟はそれぞれ、自分の選んだ人生を歩んで行く。彼らの母親が自分の意志でオオカミの子供を産んだように。結局、人は誰でも自分の 信じる道を前に進むことしかできないのですから。」
人生という山はいつも険しい。だからこそ、自分の信じる道を進むのだ。それは、なにも限られた人たちだけに許された特権ではない。たとえ、過去になにがあったとしても、いまがどんな状況であったとしても、前に進むことを心に決めたその日から、人は誰でも強くなれる。そんなシンプルなメッセージを、公共的に、そして誠実に伝えられるアニメを作り続けていける限り、日本のアニメはこれからも、まだ見ぬ地図のうえをしっかり前に進んでいくと信じたい。
(取材•文 飯干真奈弥)