不便の森の豊かな実
今でも、たびたび仕事場の机の下で寝泊まりすることもあるという森本は、自らが立ち上げたスタジオ4℃を離れ、現在は創作集団Phyを主宰している。集団といっても、常時スタッフを抱える固定的な組織ではない。面白そうなプロジェクトが立ち上がるたびに、認め合う仲間たちに招集がかかる。そして、そこで表現されるものはひとつのジャンルに限定されることはない。そんな自由な環境が、いまの森本には居心地が良いようだ。
「50になるまで会社組織にいたんだけどね。机の周りを片付けろとか、いろいろ周りがうるさくなってきて(笑)。本当は、自分の好きなものに囲まれて、いっぱい物がある中で創作したいのに、それを片付けてしまうと、なんだか源がなくなってしまう気がするんだよね。」
「創作って、なにもゼロから生み出すわけじゃないのに、それをみんなはき違えている気がする。本当は、いっぱいある中から何かを取り出す作業なんだよ。100を1にする作業。どれだけ100を知っているかによって、その“1”が決まって来る。沢山あるなかの“1”だけが、豊かな実になるんだよ。」
表現だけでなく、私たちの生活もまた、たくさんのモノと選択肢に取り囲まれている。これ以上、新しいものは必要ないのでは、と思えてくるほどに、先人たちが残していった歴史的遺産は偉大なカオスでもある。膨大な情報に取り囲まれた現代の私たちにとって、そのカオスから取り出すべき「豊かな実」とは一体何か。そして、それはどこにあるのか。終わりなき謎解きのヒントは「不便」にこそある、と森本は言う。
「世の中には、簡単にしてはいけないことがあって、本当はある程度の“不便さ”が必要なんだと思う。たとえば、クモが餌を捕獲して食べるとき、人一倍手のかかる作業して食べる。どうしてそれが必要なのか、見ていてもわからないような、とても複雑な作業。でも、そこにまだ誰も知らない重要なヒミツがあるはず。」
「都市はどこも便利で同じ。そろそろ田舎の、その“不便の貴重さ”というのに気づく頃だよね。都市追求型の文化は、だんだん終わって行くんじゃないかな。もっともっと、と欲しがるから面倒くさいのであってね。これから、どんどん 捨てて行けばいいと思ってる。もっと無くなったほうが、楽しくなる。かといって、自然のなかで自給自足するなんていうのは、そう簡単には出来ないけれど。」
「そう考えると、都市の道は便利で広すぎる。田舎の道は不便で狭いから、お互い譲り合ったりして、交流ができる。昔の都市の道も今よりずっと相手との距離が近かった気がする。それがクルマの数が増え、スピードが増して、広い道路が必要になって。人々がクルマという文化で遮断されてしまったような気がする。」
「だから個人的には、そういう人同士の距離を縮めるような“不便”なクルマが欲しいね。(笑)いまのクルマは速すぎると思う。いま自分が考えているクルマは、最高時速10キロぐらいでゆっくり進むクルマで、家みたいなやつ(笑)。クルマのなかに、公園とかいろんな空間があって、そのなかで皆が生活している。森のクルマ、みたいなね。」
人生の大半を大都市・東京で過ごしてきた森本だが、いずれは田舎暮らしをしたいと真剣に考えている。理想の住処は、朝日から夕日までの景色を一日じゅうずっと眺められるような場所。和歌山に帰郷したときはいつも、午前4時頃に山の上のほうまで出かけては、完璧な朝日を見られる場所を探しに行くという。
「世界の朝の風景って、意外と知らないでしょ。世界中の人が、朝、どんなことをしてるのか、すごく興味があってね。太陽が一番に見える場所に住んでいる人は、毎朝どんなリアクションしてるのか。太陽にどう接してるのか。どんな挨拶してるのかとかね。きっと、気候も食生活も全然違うだろうけど、でも皆おんなじ太陽を毎朝見てるんだよね。」
「たとえば、千葉の成田山の朝の修行の風景とか、すごく面白い。世界平和を、ただひたすら、一日も欠かさず、毎日祈ってる。お坊さんだけじゃなくて、いろんな人が全国から修行に来ていてね。普通の一般人や、中学生みたいな子供たちとか誰でも参加出来る。自分が参加したときは、遠方からわざわざ泊りがけで来る人たちもいた。こんな知らない朝があったんだ、っていう新鮮な驚きだね。」
森本作品には、神社やお寺で良く目にする景色がモチーフとして登場することがしばしばある。映画「SHORT PEACE」のオープニング映像も、日本で生まれ育った人間ならば誰しもが記憶のなかに留めているはずの原風景と、“不思議”の先に引き込まれそうになる、あの言いようのないザワザワとした感情を思い起こさせる。
「実は、子供の頃は神社仏閣はそれほど好きじゃなかった。でも、今は時間があれば田舎に帰ってよく訪れる場所。見れば見るほど、この宮大工は良い仕事してるなあ、って感心したり。小さい頃から見上げている風景だから、見慣れているはずなのに、なぜか行くたびに必ず新しい発見がある。それほど奥が深く、多くの人の手間がかかっている。僕にとって、神社やお寺はいろんな“不思議”を教えてくれた場所ですね。」
「高野山も、小さい頃によく行っていた場所。とにかく、木のスケールが大きくて好き。人間が小さく見えるというか。あと、吉野みたいな場所もいいね。奥深い山のなかで、少し怖いくらいに途中何にもないけれど、山の上のほうに着くといきなり天上の街みたいに広がっていて。両方とも、わざと奥の方に隠されている秘密の場所みたいなところ。なのに、世界中から観光客がわざわざ訪れている。きっと皆、あの“不便の貴重さ”を求めに来ているんじゃないかな。」
不便の先にある「不可思議」の世界。それを体験する貴重さは、手間と労力をかけなければ得られない報酬のようなものだ。より簡単に、迅速に、便利になった現代の生活がもたらしたはずの多くの豊かさは、皮肉にも、たった一粒の「豊かな実」を探し求める私たちの渇望を、逆に強めているのかもしれない。
(取材•文 飯干真奈弥)